医療はある程度のケース・スタディ

扁桃腺が腫れれば熱がでる。切り傷からは血が流れる。ある程度の深い傷は縫い合わせなければ後が残る。傷口は清潔にしておかなければ、後で雑菌による化膿を起こすなど、私たちのレベルでも知っている医療の知識があります。

それはある意味自分たちの経験の蓄積でもありますし、実際に自分がそのような経験をしたわけではなくても、親から聞いて覚えた、人から聞いて覚えた、本などで見たということもあるでしょう。「このような身体の異変で、その先どうなるか」ということを、私たちは長い歴史の中である程度蓄積してきたのです。それは専門的な知識を度外視した民間療法などでも顕著に見られます。風邪をひいたら首にネギを巻くなどという一見風邪に何にも関係のないようなことから、「しょうが」は身体を暖めるという理にかなったものまで、さまざまな知識が蓄積されています。

それは、私たちは「記録」することができる高度な知性をひとりひとりが持っているからであり、さらにはその知性を誰かに対して「共有」することができる高度なコミュニケーション能力を持っているからです。祖父母の祖父母から伝わってきた知識は、ある意味世代を超えた「経験」を共有するためのものです。現代よりも、もっと不衛生だった時代から伝わるそれらの民間両方の伝承は、効果ないのであれば伝わるものではありません。「迷信」であれば「迷信」と伝わります。

現代の医療もこれに近いものがあります。すべての病気に対してすべての医師が直面したわけではなく、世の中に記録されているすべての病気は「誰かが」経験したものです。その疾病に対してどのような薬品が有効なのか、その疾病の進行度によって人はどのような変化を起こすのか、その他ありとあらゆることが記録されています。医療の知識のほぼすべてが臨床的なもの、つまり、「経験」から生まれているものなのです。

医師はそれを追体験することで医療を学び、その知識で診断を下します。医療はケース・スタディの塊であり、「未知の病」に対してはどのような医師も無力です。誰も知らないような病に対しては、医師が総出で解析に辺り、どうしてそれが起こったか、どのような治療が有効なのかを考えます。それが正解なのかどうかは、実際の治療によって答えが出るのです。そのような医師たちの奮闘の記録が、現代の医療の記録です。

私たち人間の身体の構造は有史以来大きく変わったわけではありません。だからこそ、このような蓄積された知識が有効なのです。これが産まれる度に遺伝子的に変異し、さまざまな身体の構造を持つような生き物であったら、医療はまったく無力です。奥の深い私たちの身体はさまざまな人が解析し、分析し、勉強しているものです。それが今の医療を作り上げている根本です。「記録」がなければ、誰も医療に対して無力であり、「診断」などを下すことができないでしょう。誰も見たことのない病だらけであれば、誰も「この病気はこう治す」と知らないのです。極端に言えば、私たちの身体の構造が変異した瞬間に現在の医療は無力になります。それほどまでに「記録」に依存している技術。それが医療なのです。ですから、民間に伝承されている治療法といっても、経験に基づくものであるのならばバカにはできないということになるでしょう。

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