本当に必要な治療とは何か

身体を壊したときに頼れること。それが医療の大前提です。それが病気であっても、怪我であっても、日常生活に支障がない状態に回復することが私たちの希望です。

医療とは、人が「理不尽だ」と感じる身体の異変に対して人間の手でその「理不尽」を修正するものです。もちろん、生きている以上は私たちは老います。「老化」は自然の流れであり、簡単に止めることはできないものです。「いつまでも若くいたい」というのはもしかすると医療の範囲ではないのかもしれません。医療に求めるべきことは、そのような「私たちのエゴ」ではなく、あくまでも「理不尽」なことに対しての救済です。怪我をしなければ、この病気をしなければ、もっともっと働くことができた。もっと元気で生活することができたという事に対する、「なければ」という状態を、身体を回復させることで実現しようとする試みです。それは時には私たち人間の傲慢に感じられるかもしれません。動物においては自然に病気をし、怪我をし、運が悪ければそのまま命を落としてしまいます。それがある意味「自然」であり、命の限界であるのかもしれません。

ですが、私たちの知識はそのような「運」に依る命の上限を塗り替えるということを実践してきました。私たちは古来自分の身体がどうなっているのか、人間の身体はどのような構造で、どのように働き、生きているのかということを探り続けてきました。それは遺体を解剖して直接調べるという行為から、薬学的に薬と身体の反応を調べるという部分に至るまで、さまざまな試みです。それらを通じて私たちは「命は伸ばせる」、「不運な事故による怪我は回復できる」ということを確信し、実践してきたのです。

昨今では医療が健康と美容の実現という私たちの「エゴ」に近い範囲にまで及ぶと捉えられてきています。それは容姿を変えるための外科的医療も確かに「医療」であり、それを望む人もあとを絶たず、私たちの知識や技術は「好きなように見た目を変える」という部分にもメスを入れ、可能にしてしまっているからです。日々の健康管理などは自分自身の責任であり、自分しかわからないはずのことではあるのですが、それを「医療」に答えを求めるような風潮すらあります。

理解しておきたいのは、医療は万能ではないということです。医療は人の仕事であり、蓄えられた知識の集大成であり続けているのですが、それはあくまでも「もともとの身体を取り戻す」という、人の「不運」を矯正するための技術なのです。決して自分の都合のいいように身体を作り変えることが「医療」ではなく、それは本質ではないということです。そのような正しい医療への理解が薄れてしまうと、「病院」が何かのコミューンと化してしまうのです。

生きるだけでは足りないのが私たちです。自分の顔を変えたい、自分の体型を変えたい、そのような希望や願望を「医療」に対して実現してほしいと望むことは、「エゴ」であり、不運な事故、予測できない病気に対して「もっと生きたい」、「もっと働きたい」ということを後押しすることが本来の医療の本質です。ただ身体を弄るだけが医療ではなく、老化を止められるわけでもないのです。医療の本質を誤解しないようにしたいものです。

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