本当に医療が必要な局面とは

命が有限であることは誰もが知っています。命が有限であるから尊いと、誰もが理屈では知っているのです。それは私たちの道徳感が優れている証拠かもしれません。私たちの受けた教育が人に対して優しいものに進化したからかもしれません。

それでもそれを「実感」として理解している人は案外少ないものです。実感として知るということは、「命の瀬戸際に接する」ということです。自分、あるいは大切な誰かの命をつなぎとめてほしいと心底願ったことがあるかどうか、そのような体験をしたかどうかで、「命」に対する考え方が違ってくるのです。それはある種の極限的な状態です。自分の命が散ってしまうかもしれない。大切な人と永遠に別れることになってしまうかもしれない。そのような局面では、「医療」が唯一の望みです。治療に当たる医師が唯一の存在になります。

普段は無関心な医療に対して、そのような時にはすべてを委ねるしかなくなっているのです。医療とは、そのような状況に対しても、少しの怪我に対しても、等しく門戸を開いている技術です。人が人を救う。散りそうになっている命をつなぐ。そのようなことは実は毎日、病院で起こっているのです。私たちが経験することは一生に何度もあるものではないかもしれません。ですが、医師は日々、そのような状況で仕事をしているのです。それがどれだけ過酷なことが、そのような状況に直面したことのある人であれば理解できるはずです。

人の人に対する気持ちというものは割り切れないものがあります。言葉では簡単に表せないものです。「もう長くはない」、「手は尽くした」という事実があり、それを親族に伝える医師の気持ちは、毎回暗く、重たいものなのです。命に関わるようなものではない症状も、命が左右される重大な局面も、すべて全力で携わるのが医師であり、すべての症例に対して等しく回復の道を示すべく発達してきたものが医療です。人類の積み重ねた、「不幸を軽減するための叡智」です。

新しい命を産み落とすときも、命が散っていくときも、傍らには医療があり、医師がいます。どのような局面に医療が必要なのかを考えると、私たちの暮らし、人生にはなくてならないものなのです。私たちが文化的に生きている以上、医療は存在し続けなければいけません。私たちが健康を望む以上、なくてはならないものなのです。そして誰かが携わらなければいけないものなのです。医療はそのようにして受け継がれていくものです。そこには志も必要です。「人を救う」ということがどれだけ重たい意味を持っているのか、人の命がどれだけ重たいものなのか、そして誰であっても健康で幸せに暮らしたいものであるということを一番理解するのが医師です。

そのような医療は、人類の誰にでも開かれているべきものであり、特権階級、一部の裕福な人にだけ開かれるべきものではありません。誰もが治療を受けられ、誰もが人生をまっとうすることができるような世界は、理想なのではないでしょうか。それは「理屈」ではなく、人の数だけ悲喜こもごもあるわけですが、そのような「人」の暮らしを飲み込むために必要なのが「医療」なのです。医療によって生まれた新しい人生、医療によって繋がれた命、さまざまなものがあるはずです。

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