医療の受けられない子どもたち

医療は長い私たち人類の歴史が育んだ人が人を救う技術です。生きるべくして生きられる命を増やすための素晴らしい技術なのです。

ですが、その医療には「コスト」もかかるのが現実です。「医師」といえば高給取りの代名詞ですし、そんな医師に支払うべき費用とは別に、医療にかかる費用はさまざまな器機、医薬品などでとても高いものです。日本ではその一部を「国」が負担してくれていますが、その分を加味するととても個人ですべて支払うのは生活の負担になってしまうでしょう。

私たちは国家に支えられて医療を受けることができるのです。その国がなければ、日本が医療費を負担してくれなければ、私たちにとっての医療ももっと遠い存在になっていたことでしょう。私たちが気軽に医療サービスを受けられるのは、社会の制度が整っているためです。それでは、社会制度が整っていない国ではどうかというと、やはり医療は身近なものではないようです。ちょっとした治療でも莫大な費用を支払わなければいけない国がいまだにあります。そして、そのような国の人にとってその費用は生活の水準から考えると「ありえない」金額なのです。とても現在の生活の中から捻出することができないような費用が、その国の医療にはかかるのです。

それでも成長して働いている人がたくさんいるので、その国が成り立ってはいます。ですが、問題なのは体力が大人に及ばない子どもたちです。適正な治療を受ければ問題なく育っていたはずの子どもたちの死亡率が高いということが問題なのです。それでも大人になる人がいるから「いい」ということではないのです。罪のない子どもが、他の国に生まれていたら治ったはずの病で倒れているという現実は、とても残酷なのではないでしょうか。本来であれば何ということなく行きられたはずの命が、ただ「費用」の問題で次々と亡くなっているのです。

それは「技術」の問題でもあるのですが、第一に「費用」の問題の方が大きいのです。経済状態があまりよくないから、支払うことができない。国が医療に対して保障することができない。そのために一部の富豪しかまともな医療を受けられないということがあるのです。それは「社会の仕組み」を発展させることでしか解決しない問題です。私たちは日々の給与から健康保険、社会保険分の費用を引いてもらっていますが、その国ではそのようなシステムがないのです。健康は自己責任、怪我も自己責任ということでは、いくら文明が発達しても人の暮らしは変わりようもないのです。

世界はグローバル化を達成し、他の国の人が他の国の事を気にすることができるようになりました。他の国の人々のことを自分のことにように考えることができるだけの土壌ができたのです。その国だけでは解決しないのであれば、他の国の人が参入してチカラを貸すということができるのです。その先にあるのは本当に均一化された時代であり、人類の統一基準での「幸せ」というものです。そこに至るまでの道はまだまだ険しいとは思います。ですが、それでも「今」起きていることに対して何かの行動を起こすことはできるはずです。代表的なものに「募金」があります。その募金によってアフリカの子どもたちがワクチン接種を受けることができたり、経済的なことが理由で散っている命を救ったりすることができるのです。

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